OKI'S DIARY 2011
このペ−ジはOKI自らが綴るコ−ナ−です。内容は随時更新されます。OKIが発信する生のメッセ−ジを感じて下さい。
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★★★★★★★
#311 2011年7月10日(日) 吟遊詩人@仙台。東北各地を廻り帰京。熊谷ライブを経て、吟遊詩人@広島チャリティライブへ。
今朝の三陸沖で起きた地震。沿岸の津波注意報がなかなか解除にならなかったので心配した。何事も無くて本当によかった。しかし、必ずというくらい震災後はほぼ1か月スパンくらいで大きめの揺れが起きてるような。もう本当に東北の人達のストレスになる地震は止んでほしい。
先週日曜日の仙台弾き語りからちょうど1週間。暑い中、疲れ知らずで過ごした1週間の動きを。
■7月3日 仙台CLUB JUNK BOX。『OKI弾き語りソロライブ
吟遊詩人のように〜歌に思いを込めて』。
3月11日に起きた東日本大震災から約4か月。やっと東北のみんなに歌を届ける事ができた。いつか必ず!との約束どおり、やっと東北ビートニクス達の待つステージに立ち、歌う事ができた。まだまだ辛い状況の中、駆けつけてくれた人達も多くいる。共に同じ時を過ごせた事に感謝します。
この日集ってくれたみんなの突き上げた拳の力強さ、溢れる涙と笑顔、声も枯れんばかりの大合唱。俺は一生忘れません。津波で家を流されたヤツ、肉親を亡くしたヤツ、友達や親戚を亡くしたヤツ、職を無くしたヤツ、放射能の恐怖と闘っているヤツ、仮設や避難所から駆けつけてくれたヤツ、・・・それぞれいろんなキツイ状況の中にあってそれでも心折らず、絶対に負けまいと闘っている東北ビートニクス達みんなの熱い魂が炸裂した夜。俺は、この日をあらためてのスタートとして、まだまだこの先長く続いてゆくみんなの闘いに、自分なりにとことん付き合っていくつもりです。
会場入り口で義援Tシャツを一人一人に手渡しでプレゼントさせてもらったのもそんな思いの表れ。ビックリしてた人も多かったけど、少しでも言葉を交わし、触れ合える時間を持ちたかったから。南三陸町の実家がやられたローディーミツルと、東京の仲間BACKLASHのマサキにも手伝って貰った。
仙台市内からはもちろん、覚えているだけでも、宮城県は気仙沼、南三陸町、石巻、塩竃、多賀城、登米、栗原、白石などから。福島県は郡山、福島、須賀川、鏡石町、相馬、伊達などから。岩手県は盛岡、一関、宮古、遠野、釜石、大槌町軍団。秋田や青森、山形から来てくれてた人達や、遠くはるばる名古屋や横浜、東京や、茨城の鹿嶋からは義援米30kgを持って来てくれた人もいた。その米は翌日から被災地を廻った際に他の物資と共に、知っている中で最も需要があると判断した大槌町に届けさせてもらった。実はこの日はベースの山根も自分で買い集めた様々な物資を市内の若林区や宮城野区、そしてドラムの牟田の石巻の友人に届けた後にライブを観に来てくれたんだ。この日は所用で来れなかったSEIZIも実は広島に帰省するたびに仲間うちから義援金を募っては密かに入金してくれていたりする。牟田も石巻の友人達への支援を積極的かつ献身的に続けている。
人生には、ときに思いもよらない悲しい出来事が起きる時がある。それでも人は前に進むしかない。唇をかみしめ、拳を握って、心を奮い立たせて。そして笑顔を忘れず、明日への希望を胸に抱いて。様々な町の人達がそれぞれの思いを込めて突き上げた拳、大合唱する歌声が共鳴し合った夜だった。
この4か月間、随分沢山の東北のファンの方々とメールのやり取りを重ね、実際に被災地を訪ねてファンの人達と会い、物資やお見舞いを届け、話を聞き、時に泣いたり笑ったりを共有してきた。まだまだ傷は深く、痛みは癒えず、キツイ状況の中を心奮い立たせ、日々闘っている人が多くいる。自分にできることなんて何もない、などと思うべきではない。触れ合うことで生まれるものもある。大仰な行動でなくても、ほんのささやかな行動でも、いずれは巡り巡って誰かの胸に必ず届くはず。信じるものがあるなら自分の心に素直に、気持ち一つで動けばいい。心は寄り添い、繋がっている。
津波被害の大きかった三陸沿岸の町でビーツのライブをやってくれないかという話が幾つかあって、準備を進めている。秋の話だが岩手県の久慈市でやれることが、まずはほぼ確定的になってきた。同じく岩手の宮古市でも、気骨のある連中が復興イベントライブの実現に向けて動き始めている。ドラムの牟田の縁の深い石巻でも、もしうまくタイミングが合えばやれる可能性が少なからずある。全てがすぐに実現できるかはまだわからないが、いろいろ準備を進めているので待っていて下さい。
■7月4日。 以前、東北を廻った時に世話になった仙台のヒロユキに今回も代車を借り、この日はミツルとマネージャー杉山、仙台ライブの時にいつも世話になるMAD
MAGAZINEの江口の4人で、南三陸町の志津川・歌津を経て気仙沼へ行く。ミツルの後輩で気仙沼在住の陽介の案内で町を往く。でかい船が何隻も町に流されたままだ。写真に写っている2隻のうち1隻は、これもミツルの後輩マコトの親父さんの漁船だそうだ。市街地は津波の後の火災の被害も酷く、まるで戦禍の跡の様。瓦礫を運ぶダンプが引っ切り無しに走る。が、町の規模も被害も大きいだけに瓦礫の量も半端ない。それでも、45号線が渋滞するほどのダンプの多さに、復興に向かう町の活力を感じることはできた。
気仙沼からミツルの地元・歌津へ戻る。5月に比べ、感じたのは正直とにかく静かだ、という事だ。静寂。寂寥感。自衛隊が撤収した現在、町は人の気配も薄く、寂莫とした荒野が広がるのみだった。これは志津川でも感じた。石巻や気仙沼と違って屋外で動く重機やダンプの姿がほぼ見られない。所々で細々と、漁師らしき親父さん達が廃材を野焼きしている煙の臭いが妙に切なく印象に残った。今日のNHKの中継はホテル観洋から望遠で撮った映像だったが、当然ながら静寂そのものだった。
ミツルの実家の跡地には5月には無かった真新しい電柱が建っていた。家の敷地の中に、ズボッと。海に面した細い道1本挟んだだけのミツルの実家。地盤が下がり、海水は今にも溢れて来そうだ。家の外周に沿ってこれもまた真新しいピカピカの水道管が設置されている。埋設ではなくむきだし。こちらはまだ未完成で水は通っていない。に、しても、電柱も水道管も応急処置。切なさ感が募る。
ミツルのお母さんが6月下旬から入居された仮設を訪ね、心ばかりの米や食料品などを届ける。4畳半2間。家電やふとんは支給されていて、最終的にはもらえるそうだ。テレビは手頃なAQUOS。家電にはどれも赤十字のシールが貼られている。それでようやく少しだけ救われたような気がした。仮設1軒分の電化製品が約25〜30万円ほどだとすれば、今までに赤十字に寄付した53万円を含め、最終的にはたぶん仮設5〜6軒分の電化製品代くらいにはなるだろう。縁ある人達の一助にはなる。
ミツルはそのまま3泊ほどお母さんの仮設で親孝行させることにして、歌津を後にして仙台に戻る。帰りの車中では例の復興担当大臣の岩手・宮城での言語道断な暴言に対する憤りが収まらなかった。辞任は当然だが、たとえ辞任した今でも、あの一連の言動があまりにも酷過ぎるものだった事実は消えない。九州人、福岡人、B型だからなどと更に失礼連発の言い訳に終始する態度にも呆れた。
一方、ミツルからの情報で、とある被災地で医療チームの人が刺されたって話が有るとか無いとか。真偽の程は不明だが、人間誰もが疲弊すればするほど苛立ちや摩擦や軋轢が増えるのは確かだろう。心身ともにぎりぎりで踏ん張っている人達の心がポキンと折れてしまわないようにと、切に願う。
■7月5日。一人で仙台を出発。東北道で花巻まで行き、遠野で大槌チームと合流。釜石へ向かう。製鉄と漁業の町、釜石。前に来た時は入れなかった港湾の奥の方の地区も通行可能になっていた。今日のNHKの中継映像にも映っていたが、赤と青のボディの巨大なタンカーASIA
SYMPHONY号が完全に陸に乗り上げ、堤防にめり込んで民家の軒先ぎりぎりで止まっている。愕然とする光景だ。その船体のあまりのでかさが逆に防波堤の役割を果たしたのか、この民家は原形を留めている。ほぼ新車のプリウス、ビートルズのLP盤、津波が襲来した15時23分で止まった時計・・・、近隣は瓦礫の山のまま、文字通り時が止まったまま放置されている。満潮時には水に浸かる地区だ。
釜石を出て大槌町に向かう。釜石の外れの鵜住居町、両石、浜町辺りの地区は見る影もない惨状だ。大槌町に入り、仲間内で最初に仮設に入ったアニの家に案内される。やはり家電には赤十字シール。彼は電信柱バンバン!の大津波から逃げ延びたタフな男。お母さんにご挨拶し、差し入れを届ける。やはりハエはまだ多いそうで、吊るしたハエ取り紙にびっしりとハエがくっついている。
仮設を出て、5月にも世話になった家へ移動。1階部分が5月より随分きれいに補修されていた。この夜は馴染みのメンツに加え、さっき書いた久慈でのライブに一緒に出てもらおうと思っているバンドの面々が全員で来てくれていた。ボーカルは“泥だらけのTシャツ兄弟”のもう一人の兄弟。メンバーそれぞれ家や肉親を失ったり大変な状況には違いないのだが、今回のライブの話を機に、みんな一も二もなく「よしっ!これを目標にもう1回バンドやったろうぜ!」となったそうだ。もちろん楽器も流されてしまっているのだが、この町のタフな連中のことだ、大槌魂見せるはず。
この夜は平日だったのでみんなが寝た後、最終的には大槌チームのリーダー格とサシ呑みになった。じっくりといろんな話を聞いた。震災後の町の実情や様々な問題点など、当事者だからこそ語れる、ここには書けないリアルな話や、とにかく彼の中で胸の中に溜まっていたのであろう、いろんな話。いつもタフで愉快で仲間思いの最高の男だが、その笑顔の裏には本当に大変な経験をくぐり抜けて、命ぎりぎりのところで心折らず支え合い、心奮い立たせて生き抜いてきた連中の覚悟が垣間見えた。
■7月6日。平日なので当然ほとんどのヤツが仕事に出る。入れ替わりに夜勤明けの番長が登場。2か月ぶりに見る大槌の町。海はまったく穏やかで、大槌川もまるで何事もなかったように静かだ。だが、残念ながらあの日荒れ狂った海と川はやはり疑いようもない現実なのだ、と引き戻される。目の前に広がるのはやはり巨大な荒野の町だ。溜まっていた水も干上がり、からからに乾いた荒野。ただただそこに静かに横たわる乾ききった瓦礫の荒野。時折ぽつりぽつりと、焼け残って変色した鉄骨やビルの残骸が、誰かが無造作にこしらえた墓標のようにさえ映る時がある。とても静かだ。
町の中心部にある番長の家の跡地から、高台から多くの人が津波の恐ろしさを見せつけられた高台である城山の山裾とふもとにある墓地へ移動。平地の墓はめちゃくちゃに破壊され見る影もない。だが、なんと番長の家の墓石は瓦礫の中から発見されていた。まさかこの状況で!と喝采を叫ぶ。この高台から撮った津波のリアルタイム映像を「他の町の人達に見せて伝えて下さい」と預かった。うちのメンバーは勿論、東京の仲間達や、今週帰省する広島のみんなにも見せて、伝えてゆこう。メンバーには既に見せたんだ。誰もが息を呑み言葉を無くす。あいつら、この中を生き延びたんだ。
安渡、そして赤浜へ移動。大槌の漁業再建に奮闘している兄弟船と合流。相変わらず素敵な男だ。彼らの日々真っ直ぐに闘っている姿はいずれ必ず人々の胸を打つことになると思う。楽しみだ。想像を超えるキツイ困難を乗り越え、笑顔でサバイバルして踏ん張っていこうとするハートの強さ、仲間を思う絆の深さ、地域に根を張ったコミュニティとしての強力さ、・・・そういったもの全てが、この震災後の今という荒野の中での希望の光、もしくは強力な手がかりなんじゃないか、と思う。
■7月8日 熊谷HEAVEN’S ROCK VJ-1 リベンジライブ。
そんな思いを胸に、前日7日にミツルやマネージャー杉山と仙台で合流し、ヒロユキに車を戻し、東北道をひた走り、7日夕方に帰京。8日はビシッと気合入れて、熊谷リベンジライブに臨んだ。結果は観ての通り、日本一暑い熊谷でめちゃくちゃ熱くて突き抜けた気持ちいいライブだった。3月20日の延期公演という事で、平日開催になってしまったにもかかわらず集まってくれたみんな、本当にありがとう。感謝してます!ツアーでメニューに入らなかった曲なんかも織り交ぜつつ、17日の博多イベントや30日の千葉LOOKリベンジライブも全身全霊ガッツリ魂込めていきますんで是非楽しみに待っててください!
さぁそして俺はこのダイアリーを書き上げたら、16日の吟遊詩人@広島チャリティライブに向けて、一足早く先乗りで広島に入ります。『吟遊詩人のように〜広島から被災地への思いを込めて〜』。タイトルどおり広島から被災地への思いを込めてめいっぱい歌います。そして仙台で受け止めた東北ビートニクス達の熱い魂を広島のみんなに伝えてきます。広島、そして西のビートニクス達、広島楽座で待ってます!
「We hear CALL S.O.S from East Japan」「To save
them,let’s send the mind」「POWER TO YOU!
POWER TO JAPAN!」
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